忘れられない日本語教師の教え
作者:趙敏
指導教師: 雨宮 雄一
私は今大学2年生だ。大学に入って2年間、私はたくさんの日本語教師と知り合った。その中で、印象がもっとも深く、忘れられない日本語教師は、1年生の最初の先生である黄彩霞先生だ。
よく知られていることだが、中国の学生にとって、一番大切なのは、大学入試だ。いい大学で高等教育を受けるために、学生たちは10年以上、一生懸命に勉強する。大学入試が終わった後、自分の志望と成績によって、進学する大学が決まる。
夏休みは、速くという間に終わり、私は故郷から長春へ来た。汽車で48時間ぐらいかかるので、とても遠い。
大学に入り、寮に入った時、私は「あっ、大学生になったんだ。」と実感した。
まず、大変な軍隊訓練が始まった。天気は暑くて、ストーブのようだった。さすがの私もこの暑さには参った。それから、「十.一」の七連休が終わってから、日本語を学ぶ生活が正式に始まった。私たちは、その時、黄彩霞先生と知り合った。
先生の性格はいつも優しくて、真面目だった。
第1回目の授業で、黄彩霞先生は私たちに「将来、何をしたいですか?」と質問した。実は、大学で何を勉強して、将来何をするか、まだはっきり決めていなかった。しかし、先生が質問をしたので、私はとりあえず「私は将来、日本へ留学したい。」と答えた。他のクラスメートも「私は将来、日本へ留学したい。」「私は将来、日本の会社で仕事したい。」等と答えた。皆の答えを聞いて、先生は「先生の大切な仕事は、学生を正しくよい人間に育てることです。」と自分の見解を説明した。これを聞いて、私は深く感動した。クラスメートも、先生に注目しながら、話を聞いていた。黄先生の話を聞いて、心が打たれた。その時、私は自分の将来のことを考えたすときりがないので、あまり深く考えないようにしていた。
小さい時、私はいろいろな夢があった。本を読むことが好きだった時は、私は作家になりたかった。バイオリンを弾くことが好きだった時、私は音楽家になりたかった。しかし、成長の変化にしたかって、私の夢も変わっていった。そのため、今すぐ黄先生の質問に明確な返事をすることはできなかった。冬休みの時、私は家へ帰った。家族と相談して、私はやっとその質問の答えを見つけた。それは、私は将来、出版社のようなところで仕事をしたいと言うことだ。
実は、一学期の時、私は「大学生記者恊会」に参加していた。最初私は常に不安を感じていた。しかし、経験を重ねるに伴って、私は問題解決能力が少しずつ身についてきた。今の出版社で仕事をするという目標は、先生の偶然の質問から始まったのだが、私にとっては、今は将来の目標にまでなってしまった。
黄先生は学者でもあり、博学である。彼女は知識を与えるだけでなく、私の心にインスピレーションを与えてくれる先生だ。学校へ戻った後、私は黄先生と相談した。先生は私の考えに賛成した。そして、先生は「知識の量を増やすのではなく、考える訓練をすることにこそ、勉強の存在価値があるのだ。」と言った。勉強を怠けてはいけないという意味である。
黄先生は、私たちのためにいろいろなお世話をしてくれた。そして、学生たちの成績に関心を持つばかりでなく、学生の生活にもよく関心を持っていた。
その時、私は長い文型が苦手でした。ある夜、おそらく夜11時ぐらいだったが、私はまだ宿題が終わらなかった。「日本語の文法はあまり易しくありませんね。」と思いながら、先生にQQで連絡した。その時私は、実際に先生が私に返事することは期待していなかった。しかし、先生はどんな質問に対しても、すぐ答えてくれた。説明も分かりやすかった。
黄先生と話していると、友人やお母さんと話しているような感じがした。先生に対する恩を忘れてはいけないと思う。